画像でコミュニケーションを交わす時代とは、文字と画像が融合した時代である?


つい先日福岡を訪れて、B-DASHキャンプで

Googleは使わない、SEO対策しているから——Instagram有名人のGENKINGが語った10代の「リアル」
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このセッションを見てきた。

なるほど。インスタグラムに関しては
・おじさんが参加すべきではない
・受けるのは、おじさんのセンスでは決してない
・Facebookはおじさん、インスタは若者
など、取り巻く環境を揶揄する言葉がいくつかある。
そして世の中には全然否定できる要素がない。

ひとつの事実は、世界で一番「画像によるコミュニケーション」が行われているプラットフォームであるということだ。
とはいえ、1枚挙げるのに800枚撮る、というのは、まだ画像というコミュニケーションツールに人が充分慣れてない証拠といえばそうだ。

慣れてないから面白いんだろうし、そこに言葉でのコミュニケーションではできなかった類の通じ合いがあるからみんなそんな慣れてもいないことにチャレンジする気になるんだろう。
このメディアがブログであるから、もはやここで例えることすら陳腐なのだけど、例えば料理についていくら美味しい美味しいと叫んでも、一枚のおいしそうな料理の写真には到底かなわない。
フロー図をすべて言語で表現しようとするバカはいない。
画像によるコミュニケーションとは、そういうことだ。

そして、昨今一番大きいのは言語と画像の流通コストがそんなに変わらなくなってきたこと。
ネットワークトラフィックの容量は随分前からそうなっていたが、以前からあった顔文字・絵文字などの「もはや文字として扱われているような画像」に加え、LINEなどのスタンプや台頭により、アイコンとして文字と一体化して利用される画像のバリエーションは爆発的に増えつつある。
こういった利用に関する心理コストが下がることこそコミュニケーションの流通においてそのツールが選定されるひとつの要因で、新しいツールでそれが下がるというのは、長く言語でのコミュニケーションに頼ってきた世界においては相当大きなことだ。

こうして日常の道具としてハンドリングするインフラさえ充分整えば、純粋に今認識されてる言葉だけでコミュニケーションをとる時代はあっさり終わるだろう。
それは言葉を変えれば、画像が言葉と一体化するというようなこと。だからその変遷はほとんどインパクトなく、日常になんら変化という気づきをもたらせることなく完了することだろう。
そして、言語ありきで認識構成されている今の文化という概念にどういう影響を及ぼすのかというのはとてもとても興味深い。